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大伴旅人が贈った古代琴の復元
大伴旅人が贈った古代琴の復元

1月26日の読売新聞の地域版によりますと対馬市厳原町の市交流センターでこれまで古代琴の復元に取り組んでいた実行委員会が主催している『たびとのことセミナー』が1月24日に開かれたそうです。

対馬で演奏会を開催している作曲家の方が『古代琴を復元すれば、島の文化の活性化になるのでは…』と提案して対馬の音楽や木工などに関心のある市民が集まり実行委員会を組織して昨年11月には、桐の代わりに杉を使い試作品を作ったそうです。
24日当日は約50名の参加者たちが対馬産の麻と絹で作られた弦を本体部分に張っていき古代琴を完成させ弾いてみて音色を楽しんだそうです。

『万葉集』のなかで太宰府長官(太宰府帥)だった大伴旅人が参議であった(藤原不比等の子供で四兄弟の一人)の藤原房前(ふささき)に対馬で作られた琴を贈りその際に詠んだ歌が収められているそうです。房前からの返歌も万葉集には載っています。
大伴旅人が藤原房前に歌を添えて琴を贈ったことは私は知りませんでしたがネットや本で簡単にですが調べてみますと結構、有名なエピソードのようです。

『いかにあらむ 日の時にかも 声知らむ 人の膝の上 我が枕かも』  旅人
(いつ どんな時になったら この琴の音を知って下さる人の膝の上で、膝を枕に横たわることができるでしょうか)

『言問わぬ 木にはありとも うるはしき 君が手馴れの 琴にしあるべし』  旅人
『ものを言わぬ木であっても お前はきっと素晴らしいお方の寵愛を受ける琴になることができましょう)

この歌、二首を添えた大伴旅人の書状は旅人が夢に見た琴の妖精と会話するという構成をとっているようです
書状のなかでは琴は対馬の結石山(ゆいしやま)の梧桐(ごとう)から作られたものと紹介してあるそうです。
梧桐は一般的には青桐(アオギリ科)のことなのだそうですが文学作品では普通の桐(ゴマノハグサ科)のことを言うそうです。
結石山というのは上対馬町にある結石山のことのようで森林公園になっていて朝鮮出兵のときに豊臣秀吉によって城が造られその城址が残っているようです。厳原と並ぶもう一つの対馬の海の玄関口、上対馬の比田勝港から車で20分で行ける場所のようです。

一ヵ月後に旅人に返歌が届いています
『言とはぬ 木にもありとも 我が背子が 手馴れの御琴 地に置かねやも』 房前
(物を言わない木であってもあなた様のご愛用の琴です。決してわが膝から離すようなことはいたしません)


このエピソードを知る前は奈良時代前半は政権の実力者としては
藤原不比等→長屋王→藤原四兄弟→橘諸兄→藤原仲麻呂(惠美押勝)と変遷していき
1、藤原不比等が死去した後は不比等の子供達(いわゆる藤原四兄弟)がまだ官位が低かったこともあり長屋王を中心とする勢力が政権の中心となるが長屋王を中心とする勢力と藤原四兄弟の間で対立していた
2、『長屋王の変』により藤原四兄弟が政権の中心となる
3、天然痘により相次いで四兄弟が亡くなる
4、その後は橘諸兄(葛城王)を中心とする政権…
と単純に考えていましたが当然、実際は長屋王と四兄弟の関係、四兄弟のなかでも主導権争いも複雑だったようです。
どちらかというと
元明、元正な天皇の信任を得て長屋王とも親しく、皇親勢力や他の豪族との協調路線を進めていこうとした房前と
血筋では天皇になる可能性もあった長屋王の勢力増長を恐れ、藤原氏主導の政治体制を確立しようとした武智麻呂や宇合との路線の違いがあったようです。(これも実際はそう簡単な感じはないようですが…)

長屋王亡き後は
長男の中納言であった武智麻呂(むちまろ)は大納言に(729年)、右大臣(734年)、天然痘で亡くなる直前に左大臣(737年)と昇進していきます。
最初は次男の房前に出世の面で遅れをとっていたようですがやがて大納言、右大臣と昇進していき藤原家の中心人物となります。深い教養があり文教行政では特に業績を残したようです

三男の宇合(うまかい)は長屋王の変では長屋王の邸宅を宇合が兵を率いて包囲しています。
参議に732年になっています。
若い頃、遣唐副使を務めており、按察使、持節使など地方行政や軍事など行政官としての能力も高かったようです。
漢詩を通じて長屋王との交流もあったようです。

四男の麻呂も変の後、従三位になりその後、宇合とともに参議になっています。
お酒が好きだった人として大伴旅人とともに有名だと思いますが地方行政・軍事方面で活躍しています。

房前は政治的な力量は四兄弟で一番と言われていた人で次男ながら717年に四兄弟のなかで最初に参議に昇進します。
これは右大臣であった父、不比等とともに藤原氏から二人の議政官が誕生となり、これで当時の各氏から一人ずつ議政官という慣例が破られ、その後の藤原氏の他氏への優位性、繁栄が決定的になった出来事の一つと思います。
前述しましたが房前は穏健な路線を目指していたようで長屋王の変の後も官位は変わらず参議のままで生涯を終えています。(死後に正一位、太政大臣を贈られています)
もっとも変の後に参議兼任で中務卿に任じられ、息子の鳥養(とりかい)も従五位下に任じられています。

長屋王の変もその直後に四兄弟の妹である(藤原)光明子が聖武天皇の皇后にたてられていることなどから四兄弟それぞれの思惑、立場の違いはあったにせよ藤原氏側が企てた陰謀の可能性が高いと思われます。


長屋王死去の年(729年)に大伴旅人からの藤原房前への琴や書状、歌。 そして房前からの返歌はいろいろな想像をかきたてられます。
1、京都への帰還を願い他氏とも親しかった房前に贈った説
2、長屋王亡き後、消沈していた房前への心遣い説
3、政権抗争などからは距離を置き、超然たろうところを互いにみせたという説
いろいろな説があるようですが実際はその全てが当てはまっているように思います。
大伴旅人は琴を贈った翌年(730年)に中納言から大納言へと昇進して京都へ帰ってきます。

なお四兄弟のうち房前の子孫である北家が一番繁栄しています。
冬嗣、良房、道長など歴史上有名な人物を輩出しており摂関家、藤原氏といえばほとんどが北家のことになります。



私は一度だけ対馬に行ったことはあります。
なだらかな壱岐とは違い平地が少なく山深い島となります。
(種子島と屋久島みたいな感じです)
シイタケは地元では有名ですし杉やヒノキなど林業も行われています。
木材など運んだ対州馬(対馬馬)や天然記念物のツシマヤマネコも有名です。
お酒も壱岐の焼酎ほど有名ではありませんが『ヤマネコ』などをこちらのスーパーなどで買うことが出来ます。

対馬というとどうしても国境の島として現在も、歴史上でも取り上げられることが多いです。
そういう対馬で奈良時代に政府の中枢にいた人物に贈る品物として対馬産の桐で作られた琴が贈られたというのはとても興味深く嬉しかったです。
当時の太宰府、太宰府と対馬との結びつきの知らなかった一面を教えてもらいました。

2月22日には対馬市厳原町の半井桃水館で演奏会が開かれるそうです。
かつて万葉集の中で歌を詠んだ人々も聞いた音色です。
演奏会が成功すると良いですね。
そして琴が話題になり対馬の活性化に繋がればいいなあ…と思います

半井桃水とは明治時代に活躍した対馬出身の作家だそうです。生家跡が対馬まちづくりコミュニティー交流館になっているそうです・

参考 講談社新書『藤原氏千年』 ウイッキペディア よろパラ 正倉院の和琴への飛躍 大伴宿禰旅人他参考にしました 
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