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伴保平(とものやすひら)~大伴家の人々~
    【採り上げた理由】
伴保平ですがこの人物はあまり知られていないのではないかと思います。
私が伴保平を知ったのはだいぶん前になりますが「日本の歴史4平安京」(北山茂夫著 中央公論社)を読んだことがきっかけでした。

前回の大伴氏のときにも書きましたが大伴家は数多くの政変に巻き込まれ勢力を落としていきますが特に「応天門の変」(866年)では首謀者として大納言伴善男が処分されその縁者・従者だけではなく関係もなかったと思われる官位があった一族も連座させられいます。

この変で古代からの名族である大伴、紀氏は壊滅的な打撃をうけています。
ところがこの本のなかで応天門の変から半世紀以上経った947年の村上天皇の在位中939年に伴保平が参議になっているのがわかり伴氏がまだ健在でいたことがわかりました。
伴保平は一体どういう人物なのか興味がわきました。ほとんど語られない人物ですが現在、私のほうで判っている事を書いていきます。
インターネットや本を参考にしています
【経歴】
  867年(貞観9年)生まれ
 
  内舎人 木工少  織部正を歴任
  従五位下・肥前守(909年)  42歳
  諸陵頭、修理亮
  若狭守     (911年)
  (紀伊守、伊勢守、大和守を歴任)
  従五位上    (917年)  50歳
  正五位下    (928年)  61歳
  従四位下    (930年)  63歳 
  従四位上    (932年)  65歳
  参議      (939年)  73歳
   大蔵卿 近江守 大和権守を兼任
  正四位下    (941年)  75歳  
  宿禰姓から朝臣姓に(942年) 76歳
  従三位      (950年) 84歳
  参議を致仕
  954年4月16日死去 大蔵卿前参議従三位 88歳


【出自をめぐっての考察】
  [両親]父 伴春雄  母 不明、
  [子供]  仲舒   彦貞   いずれも未確定

父が伴春雄であることはまず間違いないです
伴春雄の父親については諸説ある様子、 大伴家は
①実質的に藤原家に滅ぼされた敗者の家柄であるため現在ははっきりした実像・系図が伝わっていない
②古くからの家柄であるため数多くの支流に分かれていて辿ることが難しい
③長い歴史のある家ですが壬申の乱、橘奈良麻呂の変、藤原種継暗殺事件、承和の変、応天門の変など様々な政変に巻き込まれ何度か低迷期を迎えたこともあり復活した時の人物が以前の大伴家の活躍した人物たちとの繋がりがよくわからないことが多い
④古くからの物部氏と並ぶ大連の氏族であり壬申の乱で活躍したと伝えられている猟師の首領「大伴朴本大国」に代表されるような大伴家と始祖を同じくすると考えられる大伴朴本氏など役職で繋がっていたようなケースもあるようで混同しやすく実態がつかみにくいなどあるようです。

系図を辿ることはあまり意味がないことかもしれませんが好きなことなのでやってみました。

説①   大伴金村ー咋ー吹負ー祖父麻呂ー古慈斐ー弟麻呂ー伴勝雄ー須賀雄?ー春雄?ー保平
金村~勝雄まではまず間違いない
勝雄と須賀雄の親子関係がよくわからない、須賀雄の父は勝雄の他に「伴和武麻呂」などの説がある 
須賀雄と春雄の親子関係もよくわからない
恐らくこの説が一般的
 
説②   金村ー咋ー長徳ー安麻呂?ー田主?ー?古麻呂ー継人ー国道-善男ー伴中庸?ー春雄ー保平
この系図になると保平は善男の直系の曾孫になる
金村~長徳までは間違いなく また 古麻呂~中庸までもまず間違いない  問題は長徳から古麻呂までがどう繋がるか、中庸と春雄の関係がどうなのかになります
古麻呂には父が大伴長徳あるいは大伴御行、大伴宿奈麻呂、大伴田主などの説があるようです
《古麻呂の出自について》
 長徳-子君
   -御行ー古麻呂?
   -安麻呂ー宿奈麻呂(母不明)ー古麻呂?
       -田主(母巨勢郎女)ー古麻呂?【説②】
       -旅人(母巨勢郎女)ー家持ー古麻呂?
   ー古麻呂?
古麻呂には上記の系図のような様々な説がありますが大伴長徳や大伴御行や大伴家持の子供というのは年代的にありえずただの伝聞でしかないかと思われます。恐らく田主か宿奈麻呂の子供であり はっきりはしませんが大伴田主の子供の可能性が高いように思います
大伴古麻呂が「橘奈良麻呂の変」に巻き込まれたこともあってか父親がはっきりしないようです。
父が田主,御行、宿奈麻呂のいずれにしてもこの説では長徳の流れになるようです
大伴古麻呂についてはいつになるかわかりませんがで取り上げようと考えています 

伴中庸と伴春雄の関係はよくわかりません。伴中庸が応天門の変で罪人となり隠岐に流されているのできちんと伝わっていないようです。
伴春雄、伴仲兼(薩摩の肝付氏の祖と伝えられる)が子供といわれています。

なお大伴氏の系図をみると同じ系図のなかに伴中庸の子供として伴春雄が、また伴須賀雄の子供としても伴春雄の名前がみられるものがあります。同じ名前の別の人物なのか、混同されているのかこのあたりはわかりません また説④に繋がりますが家持の子の永主の子として春雄が出てくることもありよくわかりません

伴善男ー伴中庸ー伴春雄ー伴忠行ー(鶴岡八幡神社家?)
       -伴仲兼ー兼遠ー(大隅伴氏 肝付氏)
中庸の子孫として鶴岡八幡神社家 三河伴氏・大隅伴氏があるようです
 鶴岡神社家は伴氏の後裔と伝えられていますがここでも二説あり上記の伴善男流の春雄と大伴家持-永主流とあるようです

説③   ー継人ー国道-?伴河男?ー?春雄ー保平
この説は春雄の父親が「伴善男」の弟ではないかと言われている「伴河男」ではないかという説です 言ってみれば説②の変形バージョンです
「伴河男」は周防守,下野介、下野守などを歴任、「応天門の変」に連座して能登に流されています。
伴善男の弟ではないかといわれているがはっきりとしたことはわかりません

説④   金村ー咋ー長徳ー安麻呂ー旅人ー家持ー伴永主ー?春雄ー保平
この説では家持の直系ということになります。
金村~永主までははっきりしていると思います。
永主には春宗と2名の娘がいたことはわかっています。
この説では春宗と春雄がどういう関係になるのかということが焦点になると思います。
同一人物とすると年齢的に無理があると思います ただ同じ春が付いていますし繋がりもあるかもしれませんしこの説も完全に否定はできないように思います。

「大伴永主」は784年従五位下(正六位上より昇進)10月に右京亮
785年藤原種継暗殺事件に連座 隠岐に流罪、 806年従五位下に復位、父は大伴家持 子に陸奥介伴春宗と女子とも伝えられる  
娘は藤原豊彦との間に藤原冬嗣(大納言)
「伴春宗」は859年に従五位下陸奥介に任じられれています 子供は忠輔と伝えられています
  
【考察】
現在,確認できる大伴(伴)家で公卿(参議)まで昇進できた最後の人でです
経歴を考えてみるとノンキャリアの能力のある人がコツコツと仕事を勤め上げいろいろな役職や地方官を積み重ねて藤原家(特に北家)独占が強まって来た時期に高齢にはなっていましたが公卿まで辿りつくことができたのだと思います。
血縁的にどう繋がるか定かではありませんが伴国道,伴善男親子も官僚とし実務的な能力的に長けていたいたようです そのような素質ががあったのかもしれません。もちろん本人の功績、努力が大きいと思います 
そして大変長生きで80歳を過ぎても現役として活躍しているのには驚かされます
 
ここで保平が参議に昇進した年の台閣をみてみますと
朱雀天皇時の台閣(天慶2年 939年)
    摂政太政大臣  藤原忠平(60) 藤原北家嫡流
    左大臣     藤原仲平(64) 忠平の兄
    右大臣     -
    大納言     平伊望(57) 桓武平氏(桓武天皇の玄孫)              
                     11月16日死去
            藤原実頼(40)藤原北家(忠平の息子)              
                     6月27日就任
    中納言     橘公頼 (62)橘氏(父は広相、純友の乱で功績、地方官歴任))    
                     8月27日就任
    権中納言    源清蔭(56) 陽成源氏(陽成上皇天皇の第一皇子)         
                     12月27日就任
            源是茂 (53)嵯峨源氏(父は源昇、光孝天皇の養子に)       
                     8月27日就任
    参議      藤原當幹(75?)藤原南家 (父は良尚、兄は菅根、元方の叔父?)      
            紀淑光 (70)紀氏(父は長谷雄) きのよしみつ           
                     9月11日死去
            藤原元方(52)藤原南家 (娘が村上天皇の更衣に 父親は参議の菅根) 
                     8月27日就任
            源高明(26)醍醐源氏(醍醐天皇の皇子)              
                     8月27日就任
            藤原忠文(67)藤原式家(地方官歴任)               
                     12月27日就任
            伴保平(73)                           
                     8月27日就任
            藤原敦忠(33)藤原北家(時平の三男、忠平の甥)           
                     8月27日就任


保平が参議を辞す2年前の台閣です
 村上天皇時の台閣(天暦4年 948年)                       
   関白太政大臣   藤原忠平(69)藤原北家嫡流
   左大臣     藤原實頼(48) 藤原北家嫡流 (忠平の長男)
   右大臣     藤原師輔(41)藤原北家(忠平の次男)
   大納言     源清蔭 (65)陽成源氏(陽成上皇の第一皇子)            
1月30日就任
藤原顕忠(51)藤原北家(忠平の甥,時平の次男)              
1月30日就任
   中納言     藤原元方(61)藤原南家 (娘が村上天皇の更衣に、皇太子になれず)
           源高明 (35)醍醐源氏(醍醐先帝の皇子)        
1月30日就任
           藤原在衝(57)藤原北家(藤原魚名流、山蔭の甥)     
1月30日就任
   権中納言    藤原師尹(29)藤原北家(忠平の五男)         
1月30日就任
   参議      源兼明 (35)醍醐源氏 (醍醐先帝の皇子、高明の異母兄弟)
           伴保平 (80)
           源庶明 (45)宇多源氏 (斉世親王の息子)
           藤原師氏(36)藤原北家(忠平の四男)
           平随時 (57)仁明平氏(仁明天皇の孫 雅望王の子供) たいらのよりとき 
1月30日就任

           源等  (69)嵯峨源氏(源希の息子)
           小野好古(65)小野氏(純友の乱で功績,道風の兄 )
翌年の948年に関白太政大臣 藤原忠平が死去してしばらく関白・摂政・太政大臣は空白が続くことになります
(村上天皇崩御、冷泉天皇即位時の967年に藤原實頼が関白太政大臣になります)
  
伴保平が活躍した10世紀半ば位からは国司などの地方官も含めて、藤原氏(特に北家、摂関家に繋がる家系)の権力の独占が強まっていきます。
この時代以降は村上源氏等の源氏や大江、橘家が時折公卿に輩出されるくらいで時代が進むと藤原家と源氏以外は殆ど表舞台に出ることはなくなっていきます。特に伴,紀,蘇我(石川),物部などの古代氏族は歴史の表舞台からは消え去ってしまうようです。

なお 伴保平が参議に就任した939年に参議に就任、保平が退官したと思われる947年には中納言だった源氏のホープとも言うべき存在であった源高明は舅であった藤原師輔という後ろ盾を失った969年 左大臣の際に安和の変に巻き込まれ失脚させられます。この事変以降藤原家を脅かすような他氏は現れず藤原忠平の子孫を中心とした同族同士の激しい権力争いになっていきます。
藤原家を脅かす存在は平忠盛、清盛など伊勢平氏・武士の台頭を待たなければなりません。
          



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