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大伴氏について
歴史について書いていこう…と思っています。
 主に大伴家と南朝(特に後南朝)に関係する人物や出来事を中心に取り上げてみます。最初は大伴(伴)家を中心にと考えています。
 内容的にはどうなるかわかりませんが大伴家の人物、有名な家持や旅人はもちろんですが例えばあまり有名ではないような大伴子虫とかも取り上げられたらと思っています。
大伴氏の一族の人々や佐伯氏、佐伯氏の出自と言われている空海とかできるだけ広く触れたいです。
 かなり難しいと思いますが出来れば業績や官位、出自、エピソードとか系図上の繋がりとかまでできたら…と思います。

また大伴氏が関係したと思われる事件(例えば有名な応天門の変)や松浦佐用姫伝説とか大伴家も関係するような伝承・伝説などいろいろ事を取り上げることができたら…などたいしたことを書けないとは判っていますがいろいろと勝手に妄想しています。

なぜ大伴氏を取り上げるのか?特に深い意味はないのですが。大伴氏が言うならば藤原氏に敗れ去った代表的な敗者の一族であることが大きいです。日本人は多いのではないかと思いますが私は判官びいきみたいなところがあって悲劇的な人生を送ったであろう人・一族に関心があります
大伴家と言うと漠然と日本書紀にも登場する古くからの氏族で万葉歌人として有名な旅人、家持親子がいて家持は万葉集の編纂に携わっている。そして国宝で名高い「伴大納言絵巻」に登場する伴善男がいる。絵巻で描かれた応天門の変など様々な政変により力が衰え平安時代初期に歴史の表舞台から姿を消していった一族というイメージがあります。 
大伴氏が没落した平安初期以降くらいからは宮廷の上層部は藤原氏の一族か源氏や平家など皇族出身の一族がほぼが独占する形になっていきます。

あくまでイメージなのですが藤原鎌足から始まる7世紀から興った新興勢力である藤原氏が天皇家を利用して自分たちの勢力・地位を確立していったのに対し大伴家は名前の通り天皇家に従い、藩屏として天皇家に仕えてきた一族であるような気がしています。

「海行かば水浸く屍 山行かば草生す屍 大君の辺にこそ死なめ かへりみはせじ…』」軍歌の『海行かば』の一節ですが元々は万葉集のなかに収められている大伴家持の長歌から採られたものです。

この歌は国内情勢の不安定さから大仏建立を目指していた聖武天皇が砂金が発見されたことを大変喜ばれ、大伴家や同族の佐伯氏に対し臣下の労をねぎらい大伴家の祖先の功績にも触れて大伴家の家訓「海行かば」まで引用されこれまで通りの忠誠を訴える宣命と贈位を越中に赴任中の家持などに送られたことに感激した家持が作った長歌が基になっているようです。
物部氏とともに古くからかつて大連として天皇家を支えてきたいう意識と誇りが家持の、大伴家の人々の底流にはあるように思います


8年後 聖武亡き後 藤原仲麻呂の独裁が強まり一族の人間が政変で失脚するなど不安定な情勢が広まる中、家持は一族に名門意識を呼び起こさせ、結束と自重をよびかける『族に諭す歌』を作っています
「久かたの 天の門開き 高千穂の 岳に天降りし 天孫の 神の御代より はじゆみを 手握り持たし…」
ただこの後も次々と政変が起こり家持自身も政変に巻き込まれてしまい徐々に大伴家は衰退の道を辿っていきます。

同族同士あるいは兄弟同士でも権力を握るためいろいろな権謀術数を繰り広げた藤原家(あるいはその後武家社会の棟梁となる清和源氏もそうかもしれません)と一族の結束を守り愚直なまでに古代から天皇家に仕え、その結びつきを信じ、功績を誇りにしていた古代氏族の名残を残した大伴家、、どちらが時代に即応でき勝者は誰になったかはその後の歴史が物語っていますが私は敗者である大伴家に深い共感と関心を覚えます。
少しでも大伴家の片鱗に触れることができればと思っています。

 
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