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大伴旅人が贈った古代琴の復元
大伴旅人が贈った古代琴の復元

1月26日の読売新聞の地域版によりますと対馬市厳原町の市交流センターでこれまで古代琴の復元に取り組んでいた実行委員会が主催している『たびとのことセミナー』が1月24日に開かれたそうです。

対馬で演奏会を開催している作曲家の方が『古代琴を復元すれば、島の文化の活性化になるのでは…』と提案して対馬の音楽や木工などに関心のある市民が集まり実行委員会を組織して昨年11月には、桐の代わりに杉を使い試作品を作ったそうです。
24日当日は約50名の参加者たちが対馬産の麻と絹で作られた弦を本体部分に張っていき古代琴を完成させ弾いてみて音色を楽しんだそうです。

『万葉集』のなかで太宰府長官(太宰府帥)だった大伴旅人が参議であった(藤原不比等の子供で四兄弟の一人)の藤原房前(ふささき)に対馬で作られた琴を贈りその際に詠んだ歌が収められているそうです。房前からの返歌も万葉集には載っています。
大伴旅人が藤原房前に歌を添えて琴を贈ったことは私は知りませんでしたがネットや本で簡単にですが調べてみますと結構、有名なエピソードのようです。

『いかにあらむ 日の時にかも 声知らむ 人の膝の上 我が枕かも』  旅人
(いつ どんな時になったら この琴の音を知って下さる人の膝の上で、膝を枕に横たわることができるでしょうか)

『言問わぬ 木にはありとも うるはしき 君が手馴れの 琴にしあるべし』  旅人
『ものを言わぬ木であっても お前はきっと素晴らしいお方の寵愛を受ける琴になることができましょう)

この歌、二首を添えた大伴旅人の書状は旅人が夢に見た琴の妖精と会話するという構成をとっているようです
書状のなかでは琴は対馬の結石山(ゆいしやま)の梧桐(ごとう)から作られたものと紹介してあるそうです。
梧桐は一般的には青桐(アオギリ科)のことなのだそうですが文学作品では普通の桐(ゴマノハグサ科)のことを言うそうです。
結石山というのは上対馬町にある結石山のことのようで森林公園になっていて朝鮮出兵のときに豊臣秀吉によって城が造られその城址が残っているようです。厳原と並ぶもう一つの対馬の海の玄関口、上対馬の比田勝港から車で20分で行ける場所のようです。

一ヵ月後に旅人に返歌が届いています
『言とはぬ 木にもありとも 我が背子が 手馴れの御琴 地に置かねやも』 房前
(物を言わない木であってもあなた様のご愛用の琴です。決してわが膝から離すようなことはいたしません)


このエピソードを知る前は奈良時代前半は政権の実力者としては
藤原不比等→長屋王→藤原四兄弟→橘諸兄→藤原仲麻呂(惠美押勝)と変遷していき
1、藤原不比等が死去した後は不比等の子供達(いわゆる藤原四兄弟)がまだ官位が低かったこともあり長屋王を中心とする勢力が政権の中心となるが長屋王を中心とする勢力と藤原四兄弟の間で対立していた
2、『長屋王の変』により藤原四兄弟が政権の中心となる
3、天然痘により相次いで四兄弟が亡くなる
4、その後は橘諸兄(葛城王)を中心とする政権…
と単純に考えていましたが当然、実際は長屋王と四兄弟の関係、四兄弟のなかでも主導権争いも複雑だったようです。
どちらかというと
元明、元正な天皇の信任を得て長屋王とも親しく、皇親勢力や他の豪族との協調路線を進めていこうとした房前と
血筋では天皇になる可能性もあった長屋王の勢力増長を恐れ、藤原氏主導の政治体制を確立しようとした武智麻呂や宇合との路線の違いがあったようです。(これも実際はそう簡単な感じはないようですが…)

長屋王亡き後は
長男の中納言であった武智麻呂(むちまろ)は大納言に(729年)、右大臣(734年)、天然痘で亡くなる直前に左大臣(737年)と昇進していきます。
最初は次男の房前に出世の面で遅れをとっていたようですがやがて大納言、右大臣と昇進していき藤原家の中心人物となります。深い教養があり文教行政では特に業績を残したようです

三男の宇合(うまかい)は長屋王の変では長屋王の邸宅を宇合が兵を率いて包囲しています。
参議に732年になっています。
若い頃、遣唐副使を務めており、按察使、持節使など地方行政や軍事など行政官としての能力も高かったようです。
漢詩を通じて長屋王との交流もあったようです。

四男の麻呂も変の後、従三位になりその後、宇合とともに参議になっています。
お酒が好きだった人として大伴旅人とともに有名だと思いますが地方行政・軍事方面で活躍しています。

房前は政治的な力量は四兄弟で一番と言われていた人で次男ながら717年に四兄弟のなかで最初に参議に昇進します。
これは右大臣であった父、不比等とともに藤原氏から二人の議政官が誕生となり、これで当時の各氏から一人ずつ議政官という慣例が破られ、その後の藤原氏の他氏への優位性、繁栄が決定的になった出来事の一つと思います。
前述しましたが房前は穏健な路線を目指していたようで長屋王の変の後も官位は変わらず参議のままで生涯を終えています。(死後に正一位、太政大臣を贈られています)
もっとも変の後に参議兼任で中務卿に任じられ、息子の鳥養(とりかい)も従五位下に任じられています。

長屋王の変もその直後に四兄弟の妹である(藤原)光明子が聖武天皇の皇后にたてられていることなどから四兄弟それぞれの思惑、立場の違いはあったにせよ藤原氏側が企てた陰謀の可能性が高いと思われます。


長屋王死去の年(729年)に大伴旅人からの藤原房前への琴や書状、歌。 そして房前からの返歌はいろいろな想像をかきたてられます。
1、京都への帰還を願い他氏とも親しかった房前に贈った説
2、長屋王亡き後、消沈していた房前への心遣い説
3、政権抗争などからは距離を置き、超然たろうところを互いにみせたという説
いろいろな説があるようですが実際はその全てが当てはまっているように思います。
大伴旅人は琴を贈った翌年(730年)に中納言から大納言へと昇進して京都へ帰ってきます。

なお四兄弟のうち房前の子孫である北家が一番繁栄しています。
冬嗣、良房、道長など歴史上有名な人物を輩出しており摂関家、藤原氏といえばほとんどが北家のことになります。



私は一度だけ対馬に行ったことはあります。
なだらかな壱岐とは違い平地が少なく山深い島となります。
(種子島と屋久島みたいな感じです)
シイタケは地元では有名ですし杉やヒノキなど林業も行われています。
木材など運んだ対州馬(対馬馬)や天然記念物のツシマヤマネコも有名です。
お酒も壱岐の焼酎ほど有名ではありませんが『ヤマネコ』などをこちらのスーパーなどで買うことが出来ます。

対馬というとどうしても国境の島として現在も、歴史上でも取り上げられることが多いです。
そういう対馬で奈良時代に政府の中枢にいた人物に贈る品物として対馬産の桐で作られた琴が贈られたというのはとても興味深く嬉しかったです。
当時の太宰府、太宰府と対馬との結びつきの知らなかった一面を教えてもらいました。

2月22日には対馬市厳原町の半井桃水館で演奏会が開かれるそうです。
かつて万葉集の中で歌を詠んだ人々も聞いた音色です。
演奏会が成功すると良いですね。
そして琴が話題になり対馬の活性化に繋がればいいなあ…と思います

半井桃水とは明治時代に活躍した対馬出身の作家だそうです。生家跡が対馬まちづくりコミュニティー交流館になっているそうです・

参考 講談社新書『藤原氏千年』 ウイッキペディア よろパラ 正倉院の和琴への飛躍 大伴宿禰旅人他参考にしました 
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佐用姫伝説と大伴氏
佐用姫伝説と大伴氏

少し前になりますが、NBCで沢村一樹が浅見光彦を演じた内田康夫原作『佐用姫伝説殺人事件』が再放送されていました。
「羽衣伝説」、「浦島伝説」(「竹取物語」が入ることもあるそうです)と並んで日本三大伝説(悲恋)の一つと言われている松浦佐用姫伝説を効果的に使ったこの物語は有田焼の陶芸一家の血縁関係と師弟関係を軸に盗作問題などが絡まり合いながら連続殺人事件・ヒロインの悲恋の結末が描かれます。
印象的なプロローグ、主要舞台が有田・唐津・呼子とお隣の佐賀県であること、佐用姫とオーバーラップする実の親を知らないどことなく翳のある魅力的なヒロイン…数多くある浅見光彦が主人公の作品のなかでも大好きな小説・ドラマの一つです。
三度ドラマ化されていてそれぞれ遥くらら、床嶋佳子、南野陽子がヒロインを演じています。
それぞれが魅力的で素晴らしいと思いますが個人的には遥くららがヒロインを演じた水谷豊版が作品もヒロインも一番好きです。
彼女は引退していますがこの作品と「真田太平記」が好きでした。

この物語の重要な鍵にもなっている松浦佐用姫の話は「肥前風土記」にも記載がある古くから唐津地方に伝わる話でいろいろな話があり後日談もいくつかあるようです。(風土記では弟日姫(おとひひめ)の名前で出ているようです)
ご存知の方も多いと思いますが一番有名な話は
〔新羅に圧迫されていた任那、百済を救援するために朝廷の命を受けた大伴狭手彦は朝鮮半島に渡る途中、準備のため唐津に滞在します。そこで狭手彦が地元の長者の娘佐用姫と恋仲になります。やがて出発の準備が出来、別れの日に船が出航する際、別れを惜しむ佐用姫は鏡山に登り、船に向かって領巾(ひれ)を振り続けます。船が遠ざかるにつれどうしても名残惜しい佐用姫は山を下り、途中、形見にもらった鏡を落としてしまいますが追い続け呼子の加部島まで追いかけて行きます。やがて船は見えなくなり佐用姫は悲しみのあまり7日間泣き続け石になってしまう…〕
になります。
唐津にはいろいろな史跡がありますが鏡山(領巾振山)、衣干山、田島神社(加部島)など佐用姫に関係する史跡もいくつか残っています。

佐用姫自身はモデルはいるのかもしれませんが実在の人物ではありません。ただ大伴狭手彦は実在の人物になります。
狭手彦は武烈・継体・安閑・宣化天皇の時代に大連として朝廷の実力者だった大伴金村の次男になります。
大伴氏は日本書紀や古事記にも登場する古い氏族になりますが実在の可能性があるのは金村の祖父と言われている室屋からではないかといわれています。
金村の時代に大伴氏は権力者として最盛期を迎えます。
この時期は武烈天皇の死による応神ー仁徳王朝の終焉、応神天皇の五世孫と言われる継体天皇の出現、筑紫君磐井の乱、継体天皇の子供で母が違う宣化=安閑天皇と欽明天皇との対立?朝鮮半島の混乱など国内外で古代史の大きな謎や出来事が続きます。
欽明天皇に変わった540年(532年の説もあります)に金村は任那4県の譲渡や賄賂問題など過去の出来事を物部氏や蘇我氏に責められ失脚・引退したと言われています。その後のことや没年もよくわかりません。
狭手彦が朝廷の命を受け朝鮮に出兵したのは537年と伝えられてます。
すでに翳りがみえていた大伴氏の権力回復のため、また金村の父の談は以前、朝鮮で戦死したと伝えられておりその弔いも兼ねての遠征だったかもしれません。佐用姫との話はこのときのことになります。
その後、562年に再度、狭手彦は遠征し・活躍したと伝えられています(信憑性を疑う説もあります)
その後の狭手彦のことや没年もよくわかりません。
金村の失脚後、大伴家は停滞期に入り政治の中枢からは外れてしまいます。
また大伴氏の嫡流は狭手彦の系統ではなく兄弟と言われている咋子の系統に引き継がれていくことになります

大伴氏が復権するは狭手彦の最初の朝鮮出兵よりおよそ150年後の壬申の乱の功績が評価されてになります。
ただその頃は藤原氏という新興勢力が政権中枢で大きな存在になっていました。
 
史実と伝説が入り混じった佐用姫伝説ですがこの話がそれほど有名でないかもしれませんが現在まで残り、九州のみならず日本各地に広まったのは筑前守として太宰府に赴任していた貧窮問答歌や万葉歌人として知られる山上憶良の力が大きいと言われています。
山上憶良は大伴氏の一族で当時、太宰帥として太宰府に赴任していた大伴旅人らと筑紫歌壇と言われる歌のグループを形成します。壬申の乱からおよそ50年後になります。
佐用姫に関する歌を数多く憶良や旅人は残しています。そうした歌を通して佐用姫の伝説は全国に広まり様々な形で残っています。
テレビで話題になった兵庫県議が城崎温泉の次に訪れていた佐用町にも佐用姫に関する話が残っているようです。

憶良や旅人が活躍してからおよそ170年後、その太宰府の地に菅原道真が左遷されてきます。
菅原道真の母は伴真成の娘と伝えられています。
伴真成は大伴狭手彦から6世の孫と伝えられています。(大伴氏は途中で伴氏に改姓しています)
失意の道真が母方の先祖のことを意識していたとは思えませんが母方とはいえ狭手彦の末裔の子供である道真が数多くの伝承が残る唐津に近く、その伝承を広めた憶良や旅人が活躍した九州の地、太宰府に左遷されたのは何か不思議な因縁があるように思えます。
学問の神様として道真を祀る「太宰府天満宮」は今も多くの参拝者を集めています。

最初の征夷大将軍として名前が残る大伴弟麻呂をはじめ東北での活躍が目立つ大伴氏ですが、狭手彦・旅人そして旅人の息子の大伴家持は薩摩守を経験しており九州でも大伴氏は大きな足跡を残しています。

大伴氏は数々の政争に巻き込まれ力を失い歴史の表舞台から姿を消していきますが「佐用姫伝説」として、また「竹取物語」の中でも壬申の乱でも活躍した実在の人物・大伴御行が、かぐや姫への求婚者の一人として登場します。
藤原氏による権力集中・圧政に対する反感もあってか物語や歌、伝承の中で大伴家の人々は生き続けています。

今年から西鉄が天神から太宰府まで直通する快速の観光列車「旅人号」の運行を開始しました。
太宰府に足跡を残した大伴旅人を意識したネーミングだと思います
太宰府というと菅原道真は有名ですが大伴旅人の事はそれほど有名ではないと思うので「旅人号」のニュースを聞いたときは何か嬉しく思いました。
更に西鉄は博多から福岡空港を経由する太宰府への直通の「太宰府ライナーバス旅人」も走らせています。こちらも好調で増便されています。
歴史の街・太宰府への旅が便利になっています





参考にした本「浅見光彦のミステリー紀行 第2集」、「松浦さよ姫伝説の基礎的研究」、「日本の古代氏族4 大伴氏」「日本の歴史1 神話から歴史へ」、歴史読本「敗者の古代史」・「古代 謎の人物273人」、「古代の王朝と人物」
観光列車 『旅人ーたびとー』
観光列車 『旅人ーたびとー』(西日本鉄道)

天神経済新聞によりますと西鉄で西鉄・天神駅より大宰府駅行きの観光列車・急行『旅人ーたびとー』の運行を3月22日より開始するそうです。
列車名は大宰府天満宮宮司の西高辻さんが命名されたそうで天神を出発して薬院、大橋、春日原、下大利、西鉄二日市、五条、そして終点の大宰府と二日市での乗り換え無しの直行運行になるようです。

3500万円をかけて車両には大宰府天満宮や大宰府にある《九州国立博物館》、大宰府とも関連の深い近くの《宝満山》、西鉄も出資している《だざいふ遊園地》などが描いてある列車を導入、車内には大宰府の観光パンフレットや物産品の展示、記念スタンプ台の設置などが行われるようです。

平日は3本、土日祝日は5本、大宰府に直行する急行として運行され、天神を9時46分に出発する1便を『旅人ーたびとー』として運行する予定だそうです。
今後は、記念乗車券やオリジナルグッズ製作も予定しているそうです。

これは本当に嬉しいです。
以前から大好きな西鉄や松浦鉄道など第三セクターなどでも観光列車などが走らないかな…と思っていたので単純に嬉しいです。
もちろんJR九州の豪華列車などとは比較できないでしょうが西鉄には大宰府、柳川など観光地なども沿線にあるのでこれからもいろいろ楽しい列車や企画とか考えて欲しいです

そして名称が『旅人ーたびとー』というのが嬉しいです。
おそらくこの名前は《たびびと》と大宰府政庁に大宰師として大宰府に赴任した《大伴旅人》のことも考えて名づけてあるのでしょう。
大宰府というと太宰府天満宮、大宰府天満宮というと菅原道真というイメージがまず思い浮かびます。(あとは梅が枝餅!)

ただ大宰府は考えてみますと九州国立博物館が造られたことでわかるように古代より九州の要として政庁が置かれており中央政府より要人が赴任したり、道真のように左遷されたりと多くの人物が訪れており、九州の行政の中心地として機能してきました。
また南北朝時代には菊池氏・阿蘇氏など南朝軍を擁する懐良親王が大宰府を拠点に一時期、九州を席巻したり…と歴史の表舞台にもたびたび登場します
大宰府は歴史の街です。

私は大伴氏に関心がありこのブログに大伴氏のことを書くつもりで《伴保平》という人物だけ書いたことがあります。
(その後は時間がなかったり私の力量では難しかったりして断念しています。)
大伴家の中では大伴旅人は有名な人物ですが普段はあまりスポットが当たらないと思います。
そんな彼にちなんだ名前が列車に名付けられたのはとても嬉しいです。

大伴旅人は万葉集の編纂に関与した言われている大伴家持の父として、また旅人自身も万葉集の歌人の一人として有名だと思います。
大宰府赴任中には筑前守として大宰府に赴任していた有名な山上憶良たちと筑紫歌壇を形成したりしていたようです。

旅人は赴任中に妻を亡くしておりその悲しみを詠んだ歌や好きだったお酒のことを歌ったりと人間的な一面を窺い知ることができるそうです。
ただ政治的には藤原氏と距離をとっており高齢での赴任は左遷ではないかもしれませんが中央政府から遠ざけられた一面もあるのかもしれません


息子である大伴家持もまた父に従い幼少期を大宰府で過ごしています。
そして成人してからは彼も政争に巻き込まれ一時期、中央政界より遠ざけられ薩摩守を経て太宰小弐になって30年振りくらいに大宰府で過ごしています。
ただ彼は父と違い、赴任した頃は既に歌わぬ人になっていました。


家持は青年期の頃、5年余り越中守を任じられ富山で過ごして223首の歌を詠んでいます。
高岡では現在、第三セクターの鉄道会社『万葉線株式会社』(旧加越能鉄道)の路面電車が運行されています。
私は高岡は行ったことはありませんが鉄道に万葉線という名前が付いており、家持の足跡が街のなかに数多く残っているのかもしれません。
また歴史遺産を今回の西鉄同様、観光資源として生かしているのかもしれません。
高岡は一度訪れたい街になります。
西鉄と万葉線株式会社で何か交流などできないもかなあ…と勝手に思ったりします。


また大宰府の西、佐賀県の唐津に行きますと唐津湾、唐津市街地、虹の松原などを一望できる『鏡山》という観光地があります。
この鏡山は別名『領巾振山(ひれふりやま)』と呼ばれその名前の由来となった松浦作用姫の伝説があります。
(内田康夫の浅見光彦シリーズの『作用姫伝説殺人事件』のモチーフとなっています)

鏡山の山頂から最愛の人であった任那・百済を救援するため朝鮮に派遣された《大伴狭手彦》の船を〔そでにつけていた領巾を振りながら〕見送ったことからこの別名で呼ばれているそうです。
狭手彦は作用姫同様伝説に彩られた人ですが実在の人物で旅人、家持親子より200年ほど前の大伴氏の一族になります。
大伴氏は古代からの氏族であり他にも全国に伝説、実際の足跡が数多く残っているのかもしれません


大宰府というとまた梅も思い浮かびます。列車の運行が始まる3月22日は梅の見ごろは終わっているかもしれませんが観光列車として『たびと号』が話題を呼び、春を運んでくれればいいなあと思います

東京国立博物館・特別展「和様の書」~御堂関白記・続報~
読売新聞の6月29日分に東京国立博物館平成館の特別展示室にて7月13日~9月8日に開催される特別展『和様の書』に出展されるため京都市の陽明文庫にて世界記憶遺産に登録された「御堂関白記」や後鳥羽上皇の「熊野懐紙」など所蔵品14件の点検・梱包作業が行われたことが紹介されていました。

「和様の書」というのは「日本風の書」のことで中国からもたらされた書法を日本風に発展させた「書」になります。今回の150点の出品中約80件が国宝に指定されているそうです。150件のなかには藤原道長の自筆の書である「御堂関白記」の他、戦国時代を代表する織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の自筆の書や伊達政宗の書も展示してあるそうで「書」にあまりなじみのない私などにも興味をひかれるものになっているようです。

東京国立博物館のホームページの案内文を中心に書いてみますと…

日本の書は『書聖』と呼ばれた「王義之」(303年~361年)など中国の影響を受けた発展してきたそうです。
遣唐使の廃止などもあり平安時代中期になると日本独自の文化が発展してきて書においても筆致に丸み・柔らかさなど日本的な要素が加わったそうです。

平安中期に有名な三蹟(小野道風・藤原佐理・藤原行成)が登場。
貫禄のある艶麗な小野東風、鋭敏さ華麗な藤原左理、東風を私淑していて二人の長所を生かし均整の取れた美しい優雅な藤原行成。この3人により和様書が完成したそうです。
日本独自の仮名文字の登場・発展も大きいようです
その三人の書も公開されます。

三蹟の一人で、前回紹介しました「権記」の著者だある藤原行成の子孫は朝廷のなかで入木道(書道)を家業・家学として一定の地位を保ち書流の一つである世尊寺流として長年、書の世界をリードしてきました。
日本の書流の始まりといわれています。
和様書の完成以降は仮名文字と漢字を組み合わせた調和のとれた日本独特の「書」が発展していったようです。行成以降の世尊寺流の書も公開されています。
世尊寺流は初代、行成から17代目の世尊寺行季の死(1529年)によって断絶したそうです。
また藤原行成の「権記」は残念ながら自筆は現存していません

室町・安土桃山時代は主だった動きはなかったようですが江戸時代になると画家や陶芸家としても著名な本阿弥光悦(1558~1637年)などが登場して登場してダイナミックな書が生まれて、それ以降は「御家流」といわれる実用の書が一般に普及していくそうです。
現代の私たちの書に繋がっていくようです。

出展される中には「土佐日記」で有名な紀貫之などの書も展示されます
文字には書いた人の性格が出るとか言われますが道長、貫之など平安時代の貴族や信長、秀吉、家康、政宗など私たちにも馴染み深い戦国の武将たちの人となりに思いを馳せることが出来るかもしれません。

また平成23年に発見された藤原良相(よしみ)の邸宅跡から出土した土器に国内最古級の仮名が書かれていたそうでそれも展示されるそうです。良相は伴善男が失脚した応天門の変の中の登場人物の一人になります。
他にも日本を代表する能書の作品や和様の書で装飾された工芸品全、四代手鑑(国宝指定・筆跡のアルバム)など興味深いものが出展されるようです。

正直、私は「書」のことは全く知りませんでした。ほんのほんの少しですがこの文を書くにあたり調べることができ「書」の奥の深さ、日本文化の一端に触れることができきました。

今回は「御堂関白記」の登録もあり、私のように今まで関心のなかった人たちにも今回の公開は注目されるのではないでしょうか?
戦国時代の武将の自筆をみることができますし「書」を通じて日本の歴史を別の角度でみたり、考えたりする機会が出来るような気がします。前倒しの公開も考えているようです。行くことはできませんが興味深い特別展だと思います。


御堂関白記
 歴史的に重要な文書・碑文・絵画・地図・フィルムなどの遺産の保護と振興を目的に1992年にユネスコが創設した「世界記憶遺産」に、藤原道長の日記『御堂関白記』と日本とスペインの共同推薦による江戸初期に仙台の伊達政宗がローマに派遣した仙台藩士・支倉常長にかかわる『慶長遣欧使節関係資料』が登録されたことが18日に発表されました。

 これで2011年の筑豊の炭鉱を描いた『山本作兵衛炭鉱記録画・記録文書』に続いて日本での登録は3件になりました。

これまで「世界記憶遺産」には『アンネの日記』や『人権宣言』など世界史に残るような資料を含めて299件がこれまで登録されているそうで今回、2つの日本の貴重な歴史の資料・遺産が同時に登録されたことは、本当に嬉しいことです。

支倉常長の遣欧使の資料は日本とスペインの両方に現存しているそうで(両方の政府から推薦されているのもいいと思います!)仙台市博物館に所蔵してある「ローマ市公民権証書」や「支倉常長像」やスペインに残っている書状等が対象となっているそうです。
江戸幕府の鎖国が始まる直前の仙台の雄、伊達政宗の最後の挑戦とも言うべき遣欧使節の活動の一端をうかがえる貴重な資料でしょうしヨーロッパの人にも理解してもらいやすいでしょうし興味深いものではないかと思います。
日本と西欧の出会いの資料が日本、スペインともに残っていて大切に保存されていたのは素晴らしいことです。
先日、皇太子がスペイン訪問もされましたが王室が残る日本とスペインのこれからの絆も深める助けにもなるのではないかと思います。
もし1582年~1590年の伊東マンショなど4人の少年の天正遣欧少年使節の資料とかもあれば是非、登録を目指して欲しいものです。


そして『御堂関白記』の登録は日本の歴史そのものを認めてもらえた感じがしてすごく嬉しいです。
ユネスコでは「世界最古の自筆日記であり、重要な歴史的人物の個人的記録」と指摘して「王朝文化が頂点に達した時代を活写したきわめて重要な文書」とコメントしています。
平安時代最大の実力者の自筆が残っていること自体、素晴らしいことですし、日本のみならず世界のなかで現存する最古の日記として日本が世界に誇ることができる財産だと思います。

この『御堂関白記』は京都の近衛家(藤原道長の後裔)の文書記録類などを収めた京都の陽明文庫のなかに現存しています。
後世の写本で伝えられている部分もあるそうですが全36巻中の14巻が自筆本として残っています。
現在残っている自筆本はとびとびにはなるそうですが998年から1020年までと道長が全盛期にあたるもので歴史的資料としても値打ちは高いそうで国宝にも指定されています。
道長は995年に右大臣になり翌年ライバルだった甥の藤原伊周・隆家兄弟が左遷され左大臣になります。
そして全盛期を迎えることになります。結局、道長は関白にはなっていませんが摂関政治の頂点を極めた人になります。
道長が亡くなるのは1027年になります。

当時の日記は具注歴といわれる一年に一度配られていた暦の余白に書き込むという形式で書かれていたそうです。
現在の日記とは違い当時の儀式作法を記録して残し、それを先例として子孫に伝えることが一番の目的であったようです。

写しとして残っている当時の他の日記に比べると道長の日記は型破りのスタイルになるようです。
後から読まれることを前提に書かれているわけですから普通はきちんと整理して書いてあるそうですが道長はあまり人目を気にするような人ではなかったようで思いつくままに書いたり日記を見直したりもしないようで(字を知らないわけではないけれど)誤字脱字があったり字の大きさや書き出しがまちまちだったり、空白でない暦のところに書き込んだり…とあまり物にかまわない性格で気まぐれで陽性の人だった印象を受けるそうです。
ただその分、この「御堂関白記」はて解読が難しくて読むのが大変だそうです。

「此の世をば 我世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば」
 道長のあまりにも有名な歌ですがさすがの道長も「御堂関白記」に書いているわけではなくて藤原実資の日記(自筆ではなく写し)『小右記』に記録として残っています。

「御堂関白記」そして写ししかないそうですが50年に亘り書かれた一級の価値があると言われている「小右記」、藤原行成の「権記」、源経頼の「左経記」などの日記は特に有名で大変貴重な資料になっているそうです。

当時の日記は私たちに平安時代の政治、文化、社会、世相などを教えてくれます。
すべて後世に伝えるべき大切な『記録遺産』です。
これからも大切に保存・管理をしていただきたいです。
他にも登録を期待できる資料も多いのではないでしょうか…
日本という国を、日本の文化を世界に知ってもらえる機会になると思います。
これからもまたまた期待したいです!

*中公文庫「日本の歴史5王朝の貴族」をかなり参考にしています。